安倍晋三
安倍晋三(あべしんぞう)戒名は「紫雲院殿政誉清浄晋寿大居士」は日本の政治家である。とってもジューシー。
エピソード
■萩生田光一・自民党幹事長代行(発言録)
安倍総理と外遊中のニューヨークでこんなことがあった。
総理が突然、洋服店に入った。ネクタイを3本選び、「萩生田君も買えよ」と言うから、1本選んだ。総理はその4本を手にレジに向かったが、大きな声で「俺、ドルを持ってなかった」と言われ、私が払った。「すぐに返す」と言われたが、その日、その次の日も返す気配はなかった。
帰りの飛行機に乗る前、ネクタイ代はプレゼントすると伝えた。そしたら、「ごめんね。日本円に換算したらいくら?」と面倒なことを言うので、贈り物にすると伝えると、「萩生田君とアメリカに来た思い出。このネクタイ大事にする」と言ってくれた。
この10日後、国会の廊下で、このネクタイを着けた総理と会った。ネクタイをほめたら、「誰かにもらったんだよ」。それは私があげた、と申し上げた。(自民党千葉県連の会合でのあいさつで)
安倍首相が自ら告白した神戸製鋼社員時代の「寸法違い発注事件」
2016年3月30日放送の自民党のインターネット番組「カフェスタ」で、安倍首相が新社会人に向けて送ったメッセージより
(神戸製鋼加古川製鉄所で工程管理を担当した際の話を振り返りながら、山本一太参院議員と)
安倍「新入社員っていうのは失敗するんですよね。私もね、最初、長さを間違って入力してね。それ(間違った製品が)、できちゃったもんですからね! 大変なことになってしまったんですが(笑)。まあ、ギリギリ誤差の範囲内でね」
山本「国会だったら完全に追及されているとこですね〜」
安倍「(笑)。ギリギリ範囲内で。ラインパイプだったんですが、今も覚えてますけど。これもう『クビになるかな』と思いましたねえ。結構大量に製品ができあがってですね、みんな集まって『どうしようか』って。まあ、しかし、事なきをえて、あの……。だから、あー、えー、多少の失敗にもめげずにがんばってもらいたいと思います」
語録
- 「できない理由を考えるのではなく」
- 「早く質問しろよ」「下らない質問で終わっちゃったね、また」
- 「バカみたいな質問だな 意味のない質問だよ」
- 「だからすみませんって言ってるじゃないか」
- 「ウラジーミル、君と僕は同じ未来を見ている」
- 「(今年を)一文字にするとすれば―― …それは"責任"ですかね」
- 「私たちが責任を取ればいいというものではありません」
- 「みっともない憲法ですよ、はっきり言って。」
- 「議会については、私は立法府の長であります」
- 「こんな人達に負けるわけには行かない」
- 「哀れですね。朝日らしい惨めな言い訳。予想通りでした。」
- 「ニッキョーソ!ニッキョーソ!」
- 「ゴルフがダメでですね、テニスはいいのか、将棋はいいのか、ということなんだろうと思いますよ?」
- 「訂正でんでんというご指摘は、まったくあたりません」
- 「籠…池…さん…でしたっけ?」
- 「非常にしつこい中においてですね、あのー、しつこいと言ったら非常に...何回も何回も熱心に言ってこられる中にあってですね...」
- 「幅広く募ったが、募集はしていない」
- ジュウシー
- 「事実、4000ページ、これは皆さんも読んでおられないと思います」、(「読みました」と返されて)「本当ですか?」
- 「くるくる回して、力強く回して、前に進んでいく必要がある」
- 「これはちょっと、3秒くらい考えればわかることだと思いますよ」
- 日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ
安倍語
※括弧内は日本語訳
- イッポン(日本)
- トリモロス(取り戻す)
- ディミントー(自民党)
- タル(テロ)
- シェエン(支援)
- チンチン(賃金)
- ジョッチョ(上昇)
- チェーキ(景気)
- チューダンチェキジェーケン(集団的自衛権)
- ケッポーカイシェッ(憲法改正)
- ヨッシィデシュカ(よろしいですか)
- ダーラバ(であれば)
- スギハラアダチ(杉原千畝)
- カーンスー(過半数)
- デンデン(云々)
- ガイチテキ(画一的)
- ワガグン(自衛隊)
- セィゴ(背後)
- クニナイガイ(国内外)
- リッポウフ(行政府)
- ユアサン(心愛さん)
- サァバッ(サーバー)
- ワークニ(我国)
- トゥマ(妻)
- テンドンヘイカ(天皇陛下)
- ネガッテイマセン(願って已みません)
- タァンプダイトーリョー(トランプ大統領)
- キャアチョーセン(北朝鮮)
- ゴウトウ(goto)
- チョーゼバ(それでは)イターキマス(いただきます)
ギャラリー
防Gでのレスバなどで使えるかもしれない画像たち。
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安倍晋三の未来をプーチンが行くということは…
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レスバなどに使える汎用性の高い一枚
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人間としてどうなのかと思った人物に使おう
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安倍晋三の性根がにじみ出ている一枚
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しつこくつきまとわれたときに使おう
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相手が長文や連投などをしてきたときに使おう
関連項目
・管理晋三
年表
動画集
奇行
答弁
記事
「反共」てこ、岸元首相と気脈 孫の安倍氏が関係継承―旧統一教会と自民の半世紀 2022年08月18日07時06分
世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と自民党との関係は半世紀に及ぶ。教団は1968年に設立した反共産主義の政治組織「国際勝共連合」をてこに、党内きっての反共親米派だった岸信介元首相と気脈を通じ、つながりを深めた。両者の関係は岸氏の孫、安倍晋三元首相に受け継がれたとみられる。
◇「偉大な指導者」
教団系の「光言社」が出版した「日本統一運動史」によると、教団は54年に文鮮明氏によって韓国で創設された。59年ごろから日本で布教を始め、64年に宗教法人として認証された。日本法人の初代会長は立正佼成会出身の久保木修己氏。67年には大学生らへの勧誘が「親泣かせ原理運動」などと報じられた。
勝共連合設立時には、「右翼のドン」とも言われた当時の笹川良一日本船舶振興会会長が名誉会長に就任。70年前後から笹川氏と親交が深かった岸氏や党幹部が教団本部を訪問したり、関連団体の会合に出席したりした。
教団は64年、本部を東京都渋谷区南平台町に移転。岸内閣時代には首相公邸として使用された場所で、隣には岸氏の自宅があったという。岸氏は再移転後の73年に教団本部を訪れた際、笹川氏から「統一教会に共鳴して運動の強化を念願」していると伝えられたことを紹介。「久保木君の情熱のこもった話は非常に頼もしい」などと語った。
74年の文氏訪日に伴う夕食会では、岸氏の後見を受けていた福田赳夫蔵相(後の首相)が「アジアに偉大な指導者現る。その名は文鮮明」と称賛。久保木氏は著書で「岸先生に懇意にしていただき、勝共運動を飛躍させる大きなきっかけになった」と述懐している。
80年代後半以降は、運動史に自民党議員に関する記述はほぼ見当たらない。霊感商法が社会問題化し、92年には日本の有名歌手も参加した合同結婚式が盛んに報じられたことなどが影響した可能性がある。
◇安倍氏の力の源泉
ただ、教団と自民党の関係は続いていた。「昭和から平成にかけて選挙事務所には勝共連合を名乗る人が大勢いた」。当時を知る党職員はこう語る。全国霊感商法対策弁護士連絡会の渡辺博弁護士は7月の記者会見で、「3桁の信者が野党を含む国会議員秘書になっていた。二十何年か前に調べたときは自民党が多かった」と明かした。
安倍氏の地元、山口県の政界関係者によると、教団とのつながりは岸氏から女婿の安倍晋太郎元外相、晋太郎氏から次男の晋三氏に受け継がれた。弁護士連絡会は晋三氏が小泉内閣の官房長官だった2006年と、首相退陣後の21年、関連団体の会合に祝電やビデオメッセージを送ったとして抗議している。
前出の関係者は「晋三氏が教団の票を差配していた。力の源泉の一つだったのは間違いない」と指摘。今回の参院選では、第1次安倍政権で首相秘書官を務めた井上義行氏の支援に回したとみる。井上氏は当選後、自身が教団の「賛同会員」だと認めている。
自民党の茂木敏充幹事長は2日の会見で、教団との組織同士の関係に関し「これまで一切持っていない」と否定。党としての内部調査には消極的だ。だが、党関係者からは「かつて党本部には勝共連合から送り込まれた職員がいた」との証言も出ている。
岸田文雄首相は世論の反発を受けて内閣改造・党役員人事を急いだが、閣僚、副大臣、政務官から新たな接点が次々に判明した。立憲民主党の馬淵澄夫国対委員長は17日、コメントを発表。「もはや一部の閉会中審査で済むものではない」として、次期臨時国会の早期召集と徹底審議を求める考えを示した。問題の収束は見えないままだ。
もちろん、以下は改善された形の文章です。
親族
安倍晋三の家族、親族と言えば、父の安倍晋太郎、母の安倍洋子、そしてなにより、母方の祖父である岸信介が特に有名である。しかし、父方の祖父である安倍寛についてはあまり知られていない。安倍寛は山口県大津郡日置村(現・長門市)の大地主で、東京帝国大学法学部を卒業した。金持ちであったとはいえ、田舎から当時の東京帝大に入学、卒業するのは大層すごいことであったらしい。私財を投げ出して数億円相当の体育館を建築したり、小作農に土地を分け与えたりと、人望が非常に厚い人物であった。詳細は青木理著『安倍三代』(朝日新聞出版)を参照されたいが、この書籍によれば、安倍寛は安倍晋三とは対照的な政治思想を持っていた。
富の偏在に異を唱え、対米開戦に反対し、大政翼賛会から非推薦のなか、一貫して平和主義を唱えた安倍寛は、1942年の衆議院選挙で当選を果たした。その思想は、孫の晋三が平和憲法を「みっともない憲法」と呼び、トリクルダウンなどと唱えて、富裕層に金を配る政策を推進していた事実とは大いに異なる。安倍寛が生きていれば、孫である晋三の政策に厳しい批評、叱責を下していたことは確実であろう。
岸信介と安倍寛は、その後息子娘同士をお見合い結婚させた可能性もあり、これが事実であれば、安倍家はその後、岸家に乗っ取られたとも言える。安倍晋太郎はリベラル派だった側面もあり、晋三は、なぜか「安倍晋太郎の息子」ではなく、「岸信介の孫」と自己紹介するなど、政治家としての安倍家は既に晋三の時点で岸家の影響下にあったと考えられる。
また、『安倍三代』によると、以下の記載がある。晋三は元来あまり政治的思想はないようであり、三島事件の際も全くの無反応であったと当時の同級生が証言している。幼い頃よく遊んでもらった母方である祖父岸信介への憧れを持っており、政治家になってから祖父の思想を知ってか、右翼的な活動をするようになったこれが事実であれば、日本憲政史上最長の政権は、太平洋戦争の戦争犯罪人でもあり、昭和の怪物とも評される「岸信介おじいちゃんへの憧れ」から執り行われたこととなる。政治というのがこのような動機から行われてよいものかという、この上ない脱力感を禁じざるをえない。
この影響は晋三の次世代にも及んでいる。例えば、安倍晋三には甥(晋三の兄である安倍寛信氏の息子である寛人氏)がおり、彼は政治家になる意志がないと報道されている。寛人氏の性格については、「温厚で優しく、責任感が強い」とされている。『安倍三代』p.225によると、寛信氏も政治家には向いていないと思っていたようである。もし寛信氏が政治家になっていたら、安倍家ー特に「寛」の名を継ぐ者ーは別の方向に進んでいたかもしれない。
本項では、安倍家の親族、特に知られざる安倍寛を中心に焦点を当てて説明した。青木理氏は、安倍晋三を岸信介の「劣化版」と評しており、岸信介についても今後加筆する予定である。