親族について大幅に加筆した。
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岸田文雄首相は世論の反発を受けて内閣改造・党役員人事を急いだが、閣僚、副大臣、政務官から新たな接点が次々に判明した。立憲民主党の馬淵澄夫国対委員長は17日、コメントを発表。「もはや一部の閉会中審査で済むものではない」として、次期臨時国会の早期召集と徹底審議を求める考えを示した。問題の収束は見えないままだ。 | 岸田文雄首相は世論の反発を受けて内閣改造・党役員人事を急いだが、閣僚、副大臣、政務官から新たな接点が次々に判明した。立憲民主党の馬淵澄夫国対委員長は17日、コメントを発表。「もはや一部の閉会中審査で済むものではない」として、次期臨時国会の早期召集と徹底審議を求める考えを示した。問題の収束は見えないままだ。 | ||
もちろん、以下は改善された形の文章です。 | |||
==親族== | |||
安倍晋三の家族、親族と言えば、父の[[安倍晋太郎]]、母の[[安倍洋子]]、そしてなにより、母方の祖父である[[岸信介]]が特に有名である。しかし、父方の祖父である[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%AF%9B 安倍寛]についてはあまり知られていない。安倍寛は山口県大津郡日置村(現・長門市)の大地主で、東京帝国大学法学部を卒業した。金持ちであったとはいえ、田舎から当時の東京帝大に入学、卒業するのは大層すごいことであったらしい。私財を投げ出して数億円相当の体育館を建築したり、小作農に土地を分け与えたりと、人望が非常に厚い人物であった。詳細は青木理著『安倍三代』(朝日新聞出版)を参照されたいが、この書籍によれば、安倍寛は安倍晋三とは対照的な政治思想を持っていた。 | |||
富の偏在に異を唱え、対米開戦に反対し、大政翼賛会から非推薦のなか、一貫して平和主義を唱えた安倍寛は、1942年の衆議院選挙で当選を果たした。その思想は、孫の晋三が平和憲法を「みっともない憲法」と呼び、トリクルダウンなどと唱えて、富裕層に金を配る政策を推進している現状とは大いに異なる。安倍寛が生きていれば、孫である晋三の政策に厳しい批評、叱責を下すことは確実である。 | |||
岸信介と安倍寛は、その後息子娘同士をお見合い結婚させた可能性もあり、これが事実であれば、安倍家はその後、岸家に乗っ取られたとも言える。安倍晋太郎はリベラル派だった側面もあり、晋三は「岸信介の孫」と自己紹介するなど、安倍家は既に岸家の影響下にあると考えられる。 | |||
また、『安倍三代』では晋三は元来あまり政治的思想は持っておらず、幼い頃よく遊んでもらった母方である祖父岸信介への憧れを持っており、政治家になってから祖父の思想を知ってか、右翼的な活動をするようになったという旨の記載がある。これが事実であれば、日本憲政史上最長の政権は、太平洋戦争の戦争犯罪人でもあり、昭和の怪物とも評される「岸信介おじいちゃんへの憧れ」から執り行われたこととなる。この上ない脱力感を禁じざるをえない。 | |||
この影響は晋三の次世代にも及んでいる。例えば、安倍晋三には甥(安倍寛信氏の息子である寛人氏)がおり、彼は政治家になる意志がないと報道されている。寛信氏も政治家には向いていないと思っていたようで、『安倍三代』p.225によると、寛信氏は「温厚で優しく、責任感が強い」とされている。もし寛信氏が政治家になっていたら、安倍家ー特に「寛」の名を継ぐ者ーは別の方向に進んでいたかもしれない。 | |||
本項では、安倍家の親族、特に知られざる安倍寛を中心に焦点を当てて説明した。青木理氏は、安倍晋三を岸信介の「劣化版」と評しており、岸信介についても今後加筆する予定である。 |