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富の偏在に異を唱え、対米開戦に反対し、大政翼賛会から非推薦のなか、一貫して平和主義を唱えた安倍寛は、1942年の衆議院選挙で当選を果たした。その思想は、孫の晋三が平和憲法を「みっともない憲法」と呼び、トリクルダウンなどと唱えて、富裕層に金を配る政策を推進している現状とは大いに異なる。安倍寛が生きていれば、孫である晋三の政策に厳しい批評、叱責を下すことは確実である。 | 富の偏在に異を唱え、対米開戦に反対し、大政翼賛会から非推薦のなか、一貫して平和主義を唱えた安倍寛は、1942年の衆議院選挙で当選を果たした。その思想は、孫の晋三が平和憲法を「みっともない憲法」と呼び、トリクルダウンなどと唱えて、富裕層に金を配る政策を推進している現状とは大いに異なる。安倍寛が生きていれば、孫である晋三の政策に厳しい批評、叱責を下すことは確実である。 | ||
岸信介と安倍寛は、その後息子娘同士をお見合い結婚させた可能性もあり、これが事実であれば、安倍家はその後、岸家に乗っ取られたとも言える。安倍晋太郎はリベラル派だった側面もあり、晋三は、なぜか「安倍晋太郎の息子」ではなく、「岸信介の孫」と自己紹介するなど、政治家としての安倍家は既に晋三の時点で岸家の影響下にあったと考えられる。 | |||
また、『安倍三代』によると、以下の記載がある。晋三は元来あまり政治的思想はいないようであり、三島事件の際も全くの無反応であったと当時の同級生が証言している。幼い頃よく遊んでもらった母方である祖父岸信介への憧れを持っており、政治家になってから祖父の思想を知ってか、右翼的な活動をするようになったこれが事実であれば、日本憲政史上最長の政権は、太平洋戦争の戦争犯罪人でもあり、昭和の怪物とも評される「岸信介おじいちゃんへの憧れ」から執り行われたこととなる。政治というのがこのような動機から行われてよいものかという、この上ない脱力感を禁じざるをえない。 | |||
この影響は晋三の次世代にも及んでいる。例えば、安倍晋三には甥(安倍寛信氏の息子である寛人氏)がおり、彼は政治家になる意志がないと報道されている。寛信氏も政治家には向いていないと思っていたようで、『安倍三代』p.225によると、寛信氏は「温厚で優しく、責任感が強い」とされている。もし寛信氏が政治家になっていたら、安倍家ー特に「寛」の名を継ぐ者ーは別の方向に進んでいたかもしれない。 | この影響は晋三の次世代にも及んでいる。例えば、安倍晋三には甥(安倍寛信氏の息子である寛人氏)がおり、彼は政治家になる意志がないと報道されている。寛信氏も政治家には向いていないと思っていたようで、『安倍三代』p.225によると、寛信氏は「温厚で優しく、責任感が強い」とされている。もし寛信氏が政治家になっていたら、安倍家ー特に「寛」の名を継ぐ者ーは別の方向に進んでいたかもしれない。 | ||
本項では、安倍家の親族、特に知られざる安倍寛を中心に焦点を当てて説明した。青木理氏は、安倍晋三を岸信介の「劣化版」と評しており、岸信介についても今後加筆する予定である。 | 本項では、安倍家の親族、特に知られざる安倍寛を中心に焦点を当てて説明した。青木理氏は、安倍晋三を岸信介の「劣化版」と評しており、岸信介についても今後加筆する予定である。 |