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安倍晋三の家族、親族と言えば、父の[[安倍晋太郎]]、母の[[安倍洋子]]、そしてなにより、母方の祖父である[[岸信介]]が特に有名である。しかし、父方の祖父である[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%AF%9B 安倍寛] | 安倍晋三の家族、親族と言えば、父の[[安倍晋太郎]]、母の[[安倍洋子]]、そしてなにより、母方の祖父である[[岸信介]]が特に有名である。しかし、父方の祖父である[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%AF%9B 安倍寛]についてはあまり知られていない。安倍寛は山口県大津郡日置村(現・長門市)の大地主で、東京帝国大学法学部を卒業した。大地主の生まれであったとはいえ、田舎から当時の東京帝大に入学、卒業するのは大層すごいことであったらしい。私財を投げ出して数億円相当の体育館を建築したり、小作農に土地を分け与えたりと、人望が非常に厚い人物であった。詳細は青木理著『安倍三代』(朝日新聞出版)を参照されたいが、この書籍によれば、安倍寛は安倍晋三とは対照的な政治思想を持っていた。 | ||
富の偏在に異を唱え、対米開戦に反対し、大政翼賛会から非推薦のなか、一貫して平和主義を唱えた安倍寛は、1942年の衆議院選挙で当選を果たした。その思想は、孫の晋三が平和憲法を「みっともない憲法」と呼び、トリクルダウンなどと唱えて、富裕層に金を配る政策を推進していた事実とは大いに異なる。安倍寛が生きていれば、孫である晋三の政策に厳しい批評、叱責を下していたことは確実であろう。 | 富の偏在に異を唱え、対米開戦に反対し、大政翼賛会から非推薦のなか、一貫して平和主義を唱えた安倍寛は、1942年の衆議院選挙で当選を果たした。その思想は、孫の晋三が平和憲法を「みっともない憲法」と呼び、トリクルダウンなどと唱えて、富裕層に金を配る政策を推進していた事実とは大いに異なる。安倍寛が生きていれば、孫である晋三の政策に厳しい批評、叱責を下していたことは確実であろう。 |